死刑が確定したあとに
無罪になった4人
日本には、最高裁までの裁判を終えて死刑が確定した人が、その後の裁判で無罪になった事件が4件あります。免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件。4人はいずれも、27年から32年のあいだ、いつ執行されるか分からないまま拘置されていました。1980年代に相次いで無罪が確定しています。
4件の概要
| 事件 | 発生 → 死刑確定 → 再審無罪 / 拘置された年数 |
|---|---|
| 免田事件 | 1948年 → 1951年12月 → 1983年7月15日 / 約32年 |
| 財田川事件 | 1950年 → 1957年1月 → 1984年3月12日 / 約27年 |
| 松山事件 | 1955年 → 1960年11月 → 1984年7月11日 / 約29年 |
| 島田事件 | 1954年 → 1960年12月 → 1989年1月31日 / 約29年 |
4件はいずれも戦後まもない時期に起きています。そして4件とも、再審の扉が開いたのは1979年前後でした。1975年に最高裁が示した「疑わしいときは被告人の利益に、という原則は再審にも適用される」という判断(白鳥決定)が、それまで動かなかった再審請求を動かしたとされています。
免田事件 — 32年
1948年12月、熊本県人吉市で一家4人が襲われ、夫婦が死亡、子ども2人が重傷を負いました。免田栄さんが逮捕され、1951年12月に死刑が確定します。
有罪の決め手は自白でした。日弁連の資料は、それが「不眠不休の取調べ」によって得られたものだと記しています。
免田さんは釈放後、死刑制度と冤罪について語り続け、2020年に95歳で亡くなりました。
財田川事件 — 27年
1950年2月、香川県財田村で62歳の男性が殺害されました。谷口繁義さんが逮捕され、1957年1月に死刑が確定します。
有罪の柱は2つ。血液鑑定と、自白に含まれる「犯人しか知りえないはずの事実」でした。
松山事件 — 29年
1955年10月、宮城県松山町で一家4人が殺害され、放火されました。斎藤幸夫さんが逮捕され、1960年11月に死刑が確定します。
決め手は、掛け布団の襟当てに付いていた血痕と自白調書でした。
この事件で問題になった「検察が持っている証拠を出さない」という構造は、その後の冤罪事件でも繰り返し現れます。
島田事件 — 29年
1954年3月、静岡県島田市で6歳の女児が殺害されました。赤堀政夫さんが逮捕され、1960年12月に死刑が確定します。
有罪の柱は、凶器を石とする鑑定と自白でした。
4件に共通していたこと
4件を並べると、同じ要素が繰り返し現れます。
- 自白が有罪の柱だった。4件すべてです。物証ではなく、本人が「やった」と言ったことが決め手になっています。
- その自白が、長時間の取り調べで得られていた。当時は取り調べの録音・録画がなく、どういうやりとりがあったかを後から検証できません。
- 科学鑑定が、後年に否定された。財田川と島田では、同じ鑑定人による鑑定が再審で覆っています。当時の最先端が、数十年後に成り立たなくなりました。
- 検察が持っていた証拠が、法廷に出ていなかった。松山と島田では、開示されていなかった証拠が再審で決定的な役割を果たしました。
そして袴田事件へ
この4件のあと、35年にわたって「死刑確定後の再審無罪」は出ませんでした。5件目が確定したのは2024年9月、袴田巌さんの事件です。
袴田さんは1966年の事件で1980年に死刑が確定し、2014年に釈放されるまで48年間拘置されていました。再審無罪判決は、証拠が捜査機関によって作られた疑いに言及しています。4件で指摘された問題は、40年を経ても消えていなかったことになります。
詳しくは 冤罪と死刑 — 取り返しがつかないということ をご覧ください。
この4人は、執行されていたかもしれない
日本の死刑は、法務大臣が命令書に署名すれば5日以内に執行されます。本人に告げられるのは当日の朝で、事前の予告はありません。
免田さんは32年、谷口さんは27年、斎藤さんは29年、赤堀さんは29年。その全期間、4人は明日の朝に扉が開くかもしれない状態に置かれていました。そして4人とも、やっていませんでした。
この4件が示しているのは、制度の是非ではなく、もっと単純な事実です。死刑が確定するまでの手続きを経てもなお、誤りは起こりうる。そして執行されてしまえば、その誤りは訂正できません。
出典
- 日本弁護士連合会「死刑判決が確定したえん罪事件の例」 — 4件の経緯、有罪の決め手、再審で覆った理由
- 時事通信「死刑確定事件、全て控訴断念」(2024年9月26日) — 袴田事件の再審無罪確定
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